詩誌は、いまー⑪

「水の呪文」のこと      富沢 智

 

 個人誌「水の呪文」の創刊は一九八〇年十二月十日。その創刊号の後記「独酒」に、私はこんなことを書いていた。「だいぶ以前から、個人誌をやりたいと思っていた。わたしたちという形で処理できるテーマは少ない。無理に詩運動でもあるまいと思うのだ。しばらくは、カラスの勝手ではないが独酒とゆきたい」と。
 以後、現代詩資料館「榛名まほろば」開館の年(一九九八年九月)までに三七号を発行。十八年間の平均発行ペースは、年二号ということになる。季刊は無理だが、三号は目標としていたので、自分なりに納得している。
 「榛名まほろば」開館せり。/詩は生き方の時代に入った/いま、この惹句の出所を確認する余裕はないが、荒川洋治の言葉だと覚えている。もちろん、まほろばの開館とは別の文脈で発せられたものだが、我田引水、我が意を得たりと膝を打ったものだ。
 生き方を変えたつもりはないが、齟齬をきたすことはある。/してきたことの総和がおそいかかるとき/お前も少しぐらいは出血するか?/ (堀川正美)。まほろばを動かすために、いくらかの軌道修正と妥協は必要になる。開館と同時に「榛名まほろば」は来てくれるお客さんのものにもなっていた。そんな新しい日々のなかで、カラスの勝手で始めた「水の呪文」をどう位置づけていいか、分からなくなっていた。それは、開館以後の十一年間で五号という発行回数に現れた。創刊以来の相棒で、表紙絵を使わせてもらっていた今井敬ニクンの病死が決定的な要因となって以後、七年間の放置、休刊状態に入っていくことになる。雑誌の運命としては、完結したという思いもあった。
 しかし「川筋の淀みが自然に分かれるように、流れは小誌へと戻ってきた」(二〇一六年六月二十日「独酒」)のだ。よろしく万歳を祝うべし(萩原朔太郎)。

(会報302号「詩誌は、いまー⑪」より)