第二十回 大手拓次をしのぶ会

 「薔薇忌」         寺内 拓


 四月二十三日(日)、前日の風もおさまって晴れ渡り、会場の駐車場に咲く八重桜が満開の、今年が生誕百三十年の節目にあたる、第二十回大手拓次をしのぶ会の「薔薇忌」が行われた。
 最初に会場の磯部温泉会館からほど近い、大手家の拓次の墓で墓前祭が行われ、主催者の挨拶のあと地元の小中学生による拓次の詩が朗読された。続いて参加のみなさんひとりひとりが、薔薇の花を献花して墓前に手を合わせ、拓次の霊に話しかけたのである。
 その後、磯部温泉会館に移り、第二回大手拓次賞の授賞式が行われた。大手拓次研究会代表の員下宏子氏の挨拶に続き、安中市長の茂木英子氏の来賓の挨拶があった。
 今回の受賞作は、大手拓次賞に
 「薔薇に眠る」月森 葵(東京都)
 佳作。安中市長賞に
 「薔薇になる」墨原志乃(滋賀県)
 佳作
 「冬の薔薇」内田範子(群馬県)
 の各氏であった。そして受賞者がそれぞれ順番に受賞作品を朗読し、喜びのコメントを披露した。拓次賞に輝いた月森氏の「薔薇に眠る」の最終連を引く。

 

 日の眩むほど鮮やかな虹色の薔薇は
 砕け散った跛璃を溶かさんばかりに
 噎せ返るほど甘く それは甘く匂い立ち
 醒めることのない夢を
 いつまでもいつまでも
 繰り返している

 

 つづいて、「孤独の箱のなかから、大手拓次の詩作」という演題で、群馬県立土屋文明記念文学館の学芸主幹である佐藤直樹氏の講演があった。
 大手拓次が詩壇に登場する「藍色の蟇」から晩年までを時系列に丁寧に拓次の詩をはさみながら講演をされた。
 そして最後に薔薇のケーキを戴きながら自由に楽しく懇談し、閉会した。
 大手拓次は二三七八編もの詩を作りながら生前詩集を出すことは出来なかった。詩集が出版されたのは没後二年八か月あとである。薔薇忌のあと筆者は「藍色の蟇」の初版本を手に取ってみたいと思った。数日後、叶う事ができた。ずつしり手ごたえのある二百五十五編の詩、北原自秋の序文、萩原朔太郎の跛文、表紙にサボテンの版画絵、裏表紙には薔薇、背表紙の下に蛇の絵、筆者は手に取った瞬間、底知れぬ感動に襲われたのである。

(会報301号より)

第20回 大手拓次をしのぶ会「薔薇忌」


日 時 平成29年4月23日(日)
参加費 500円

 

◇墓前祭  13:00~ 大手拓次墓前

 

◇第2回大手拓次賞授賞式

      13:30~ 磯部温泉会館

 

◇語る集い 14:00~16:00 磯部温泉会館

    ○講演:佐藤直樹氏(土屋文明記念文学館学芸員)

    〇茶話会

     薔薇のケーキをいただきながら

 

連絡先 事務局:大手拓次研究会

     代表 真下宏子
     電話 027-385-5703

 

以下は昨年までの情報です。

 

第19回薔薇忌報告


 4月24日、大手拓次生誕の地磯部温泉において、第19回薔薇忌が開催された。
 第一部は、墓前祭。地元中学生による「銀杏樹」などの詩の朗読の後、参列者全員による薔薇の献花が行われ、墓前は花に包まれた。
 第二部は、会場を磯部温泉会館に移し、「語る集い」が行われた。
 前半の講演会では、昨年度の第一回大手拓次賞佳作を受賞された山口和士氏が「日本のボードレール 拓次の光と影、その美的誘惑」と題して話された。
 昨年度まで高等学校の校長先生をされていた山口氏。小学校時代のチョーク事件、前橋市立図書館長の渋谷国忠への手紙、緘黙児だった氏が湯川秀樹に会いに行って声が出たエピソードなどのご自身の体験を、萩原朔太郎や拓次の詩との出会いと絡めて話されたのが印象的だった。
 また、拓次の詩についての「ボードレールに強い影響を受けながらも、日本の風土の湿気を巧みに織り込み、独自の闇と想像世界にのめりこんでいった。拓次は自分の闇を隠そうとしなかった。」という指摘を、領きながら聞いた。
 第二部の後半は、薔薇のケーキをいただきながらの茶話会となった。地元の小学生や大手拓次研究会員の皆さんによる「満月」などの拓次の詩の朗読、関係団体の方々のスピーチが続いた。時間の都合で、予定していた方全員の朗読が聞けなかったのが残念だった。(佐伯)

(会報297号より)

 


第19回 大手拓次をしのぶ会「薔薇忌」


日 時 平成28年4月24日(日)
参加費 500円

一部・墓前祭
    大手拓次墓前 13:00~

二部・語る集い
    磯部温泉会館にて 13:30~

    講演:山口和士さん(第一回大手拓次賞 佳作受賞者)

三部・茶話会

    薔薇のケーキをいただきながら

 

連絡先 事務局:大手拓次研究会

     代表 真下宏子
    電話 027-385-5703

 


第十八回薔薇忌
 美しい歌声に包まれて大手拓次をしのぶ
                        磯貝優子


 四月二十九日、昭和の日に例年のように、薔薇忌が磯部の地で開催された。
 見事な花々で飾られた墓地には、多くの方が集まり、詩の朗読、献花により墓前祭が行われた。
 その後、今年初めて設けられた大手拓次賞の授賞式が温泉会館において始められた。
 群馬大学の西田直嗣先生の地域貢献事業により実施された第一回大手拓次賞は、佳作三点が選ばれた。そのうちの「薔薇の水脈」という詩を作った藤岡市の山口和士さんが出席されて表彰された。他の二点は付曲賞、安中市長賞に輝いた。今年は一六八点の応募があり、審査にあたったが、審査員が一致して推せる作品がなく、今後を期待して佳作三点を選んだとの選評があった。
 続いての講演会では、「まぼろしに咲く薔薇の歌」と題して、西田先生が、拓次の詩と作曲に関わることを、ソプラノ歌手の佐藤貴子さんの歌声にのせて話された。
 「まぼろし」とは何か。自分の人生はまぼろしのようなもの、人生すべてはまぼろしととらえられる。ただ人の記憶には残るので、どのような花をそこに咲かせるのかが、今は自分のテーマだという。
 具体的には、作曲した数々の曲を取り上げながら、拓次の詩の魅力について説明された。拓次は薔薇と向き合うとか対立するとかではなく、「わたしの薔薇」として詩語を発する。まぼろしと定義づけるのは、まぼろしと化してしまえば自分のそばに寄り添わせることができるからで、共感できる。拓次の詩の魅力は、想像しなければ味わうことのできない世界をもつということで、気づいたことや考えたことを伝えるのではなく、詩によって想いを呼び起こさせるものが、まさにそれであると述べられていた。
 これまでに作曲された詩は数が多かったが、「ばらのあしおと」、「夜の薔薇」、「終なき薔薇」の詩に表われている拓次の深い想いや豊かな想像力、印象的な言い回しや激しい詩語など拓次の独自の世界を説明された。曲として聴くと、繰り返しの言葉や終わりの余韻など拓次の詩がすっと消えてゆく部分において、呼応する詩語と音を楽しむことができたし、寂真とした空気を感じもした。
 講演後、「まぼろしの薔薇I ・Ⅶ」「明日を待つ薔薇」が会員の朗読と共に地元の合唱団により演奏された。美しい歌声が響き、これまでになく盛大なことと思われた。昨年のように磯部小学校の児童、高校生による朗読もあり、約九十名の参加を得たが、世代を超えて、大手拓次を称える時間を共有できたことは大きな前進であったと考えられる。

(会報292号より)


第18回 大手拓次をしのぶ会「薔薇忌」


日 時 平成27年4月29日(水・昭和の日)
    13:00~ 墓前祭 大手拓次墓前
    13:30~ 大手拓次賞授賞式 磯部温泉会館
    14:00~ 語る集い、茶話会 同上


語る集い講師 群馬大学の西田直嗣准教授
参加費 五百円
連絡先 大手拓次研究会代表 真下宏子
    電話 027-385-5703



大手拓次をしのぶ「薔薇忌」
 第十七回開催の報告        磯貝優子


 穏やかな春日、四月二十七日午後、大手拓次没後八十年、大手拓次研究会発足十五年を記念しての「蓄薇忌」が開催された。例年のように、墓前祭では、詩の朗読と薔薇の献花があり、語る集いでは、講演と小中学生、会員による詩の朗読により、約六十人の方々が参会して詩人をしのんだ。
 「訳詩というレッスン」という講演は、愛敬浩一氏によるもので、人柄の温かさを思わせる話し振りで、拓次の世界をわかりやすく説明してくださった。
 拓次は、早稲田大学在学時の明治四十三年からフランス詩の翻訳を始め、ボードレールの 『悪の華』の作品を手掛けた。その訳詩を考える上で、拓次の後輩の学者である村上菊一郎の訳と比較しながら詳しく話された。
 「信天翁」は、ボードレールが二十歳の時のインド洋の航海の詩で、自分を見詰めるとあほうどりのような詩人と孤独感を表現する。三連の二行目は、「彼は、をかしく醜いけれど、なほうつくしいのだ!」と訳しているが、村上菊一郎は「あの美しきはどこへやら、なんと笑止な見苦しさ」と訳す。美があるとないとの真逆の訳し方で、村上菊一郎の方が原詩に近いかもしれないが、詩的な拓次の訳にボードレールは救われているのではないかと述べられた。
 次に、拓次が二回訳した「踊る蛇」を取り上げられた。ボードレールは、詩を生々しいものにした詩人であった。蛇はなまめかしいものとして扱われている。日本ではイメージがよくないため好まれないが、女性の身体にたとえ、肌の美しきはゆらめく星のように皮がきらきらすると表現され、杖の先であやされる蛇を踊るという。また、あまり賢くない女性のイメージとして、頭の小さい年若い象にたとえる。なまめかしく、鮮やかなイメージが二重、三重に重ねられる天性の詩人の生々しさを拓次はうまく表現している。村上菊一郎と比べると、拓次の訳は、日本語的でやわらかく印象深い。また、「る」の詠嘆の昔がくり返されることでリズムがあり、詩的であるのに対して、村上の訳は、欧文訳的で、ほぼ倒置法がつかわれており、リズムがあまり感じられない。ひらがな、擬音語、擬態語を多用し、自在に自分の言葉で翻訳する拓次の訳詩は日本語としてもすばらしいとのことであった。
 最後に「春の日の女のゆび」、「青い鐘のひびき」という拓次の作品に触れられ、指と魚のダブルイメージやかすかな響きの貴重さなどを話され、本物の詩と評価された。
 講演後、地元の小中学生が堂々と朗読し、会員の方々も個性的な表現での朗読を行い、充実した時が経過して閉会したことを報告する。

(会報287号より)