平成28年度総会報告

 

 平成28年11月23日(水・祝)、前橋テルサ9F赤城の間において総会及び秋の詩祭が開催された。
 総会は、磯貝優子代表幹事からの挨拶の後、井上英明氏が議長に選出され、議事に入った。
 1号議案二八年度事業報告は、井上敬二幹事より、2号議案会計報告は中澤睦士幹事よりなされ、監査報告を経て拍手で承認された。
 続いて、3号議案二九年度事業計画案及び4号議案二九年度予算案について、井上、中澤両幹事よりそれぞれ説明・提案がされた。
 その後、会員の減少。会費の未納の問題について質疑。応答があり、総会が終了した。
 引き続き行われた「秋の詩祭」では、江尻潔氏による講演が行われた。
 講演終了後、前橋テルサ一階オルヴイエターナに会場を移し、懇親会が行われた。多数の出席があり盛会のうちに幕を閉じた。
(会報299号より)

 


  秋の詩祭に参加して
              石田 洋
 「名辞以前の世界へ」の演題で江尻潔氏の講演を拝聴して感じたことを述べさせていただきます。
 「あっ、中也か!」すぐに思い出したのが四苦八苦して読んだことのある中原氏の作品でした。限られた作品の古い記憶をたどりながら聞き入りました。正直に感じたままを述べますと、私の考えていることと逆の内容がいくつかありました。山口市へ若者を引率したことの功罪に今でも悩まされています。この詩人が言葉というものに限りない不信と不安をたえず抱いていたように感じられることです。揺れ動きのある詩を読んだ読者がどのように感じたのかは今でも謎に包まれています。
 言葉の先にあるものは「祈り」くらいなものだろうと単純に思い込んでいた無神の人間にとっては衝撃でありました。お話の中に出てきた画家や詩人では中原、古賀、一二岸(好)くらいであって、その他の人たちとの接触はまちがいなく私にとまどいを与えました。大過去まで敷衍して詩の源をかんがえることのなかった、これまでの学習不足を痛感することになりました。その理由は「未来からの時」と「未来からの風」の流れをしきりに考えていたからでした。
 ともあれ、思いもよらない映像と丁寧なお話に多大な啓発があったことに深く感謝しております。それでも一つだけ気になっていることがあります。何かと言うと、詩そのものをあそこまで深く複雑に考えると一般の詩に興味を持つ人たちはとまどいをもつのではないでしょうか。わかりにくいのが芸術ではなくて、芸術のわかり易さも必要かと感じました。詩文化というものが生き残る基層は別の所にも残っているのではないかと私自身は思っています。雑感を述べてみましたが、新たな詩の視野をいただきましたことに深く感謝いたします。ありがとうございました。

 

 懇親会

 

 テルサ一階で懇親会が講演会の後に開かれました。参加者がめいめい好きなものを選んでの立食。講演会の雰囲気から一挙に解放され、話がはずんでいました。一人ひとりの詩人の皆さんの個性のある表情が印象的でした。初めての参加でしたので少々緊張していましたが、場の雰囲気がとてもなごやかであり気楽に過ごすことができました。多くの方々に話し聞くことができ刺激をたくさんいただきました。語らいのなかに、それぞれの方の日頃の精進している姿が浮かび楽しく過ごすことができました。皆様からいただきましたオーラをいかしまして詩作をしてみたいなと
思いました。

(会報299号より)

 

(講演用資料:会報298号より)

 

名辞以前の世界ヘ
画家の詩と詩人の絵をめぐって

                  江尻潔

 

 「画家たちの二十歳の原点」という展覧会に企画の段階から参加しました。足利市立美術館を含め、四会場を巡回したこの展覧会は明治から平成までの54作家の二十歳前後作品を一堂に展示しました。二十歳という年齢で横断することにより時代を超えた画家たちの真摯な生きざまが見えてきました。その折、画家たちの言葉も一緒に集めました。瑞々しい言葉の数々に心を動かされましたが、多くの画家が詩を書いていることに改めて気付かされました。画家たちは心を尽くして自分の思いを詩に託しています。また、尾形亀之助など少なからぬ詩人たちが絵を手がけていることも気になりました。ここから詩と絵は深いところでつながっているのではないかという問いが生まれました。画家の詩と詩人の絵をともに展示したらどのようなことが見えてくるのか、そのような思いにより、企画しました。  

 以下、気づいた点を記述します。まず気づいたのは、絵に対応する詩、詩に対応する絵が、画家にも詩人にも見出しうるということです。特に古賀春江は、「解題詩」を作品に添え、意識的に絵と詩を対応させています。「野に出て山を見る。はるばるとして山を見る。胸に迫って「あゝ」といふ感嘆詞が出る。これが絵の場合の一点だ。これで十分だ。たとへこれ以上の語句が或る一つの詩歌にあつたとするも、この最初の「あゝ」まで煮詰めなければいけない。だから同じ「あゝ」である」と述べ「張り切った形」が詩であり、絵だと言っています。特に水彩画は詩歌であると言明しています。古賀にとって詩と絵はともども「あゝ」という感嘆から出ています。出所はひとつなのです。
また、三岸好太郎は「蝶と貝殻」を主題とした作品群を総称して「視覚詩」と呼びました。「絵画による詩」、「視覚化された詩」を目指しています。三岸は「詩集を熟読する事によって、画因を得る場合が随分に多い」と語っています。詩は絵の源泉として機能しています。古賀も三岸も詩才に恵まれ詩と絵がともども双子のように生れ出ています。
 詩と絵、双方のオ能に恵まれた作家の代表格に村山槐多がいます。9歳の時、父から買い与えられた画材で絵を描きはじめ、中学時代には友人たちと回覧雑誌『強盗』を発行、絵画のみならず詩や小説に早熟な才能を発揮しました。感情の高まりを詩と絵に昇華し、それらは野生と知性を併せ持ち、異様な輝きを放っています。22歳と五か月という短い生涯は半ば伝説化され人々を魅了しましたが、多くの画家や詩人に影響をもたらしたのは言うまでもなく作品そのものであり、夭折者だけが持つ、あるいは、それゆえ夭折せざるを得なかった生き急ぐような燃焼度の高さは詩と絵に帯電し、今なお熱気を保っています。《尿する裸僧》は彼の代表作であり、「一本のガランスをつくせよ」と歌った槐多自身が描かれているようです。彼は絶えず死と隣り合わせに自分の意識を持っていきました。そ
のギリギリのところで見えてくるものに照準を合わせることにより緊張の度合いを高めています。まかり間違えれば転落する危険が隣り合わせにありました。そのような心情の吐露がむしろ詩のほうに多く見受けられます。「血が私の口から滴り/死神がくゝと笑ふ」という詩には死を目前にした哀切が鬼気を伴って迫ってきます。このような詩には《房州風景》が対応すると思われます。人気のない寂しい絵です。槐多は、自分を鼓舞したり、確認するために詩を綴つています。彼の詩には絵にはなりきれなかった、また絵にすることが憚れた画家の本音が披瀝されたものもあ
ります。肩肘張らず、ふと出た言葉の素直さと初々しさが感じられます。
 一方詩人の場合はどうでしょうか。詩人の中には絵を志していた人物が少なからずいます。木下杢太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、岡崎清一郎は、はじめ画家を目指していました。木下は三宅克己に、佐藤は高村光太郎に、西脇は黒田清輝に、岡崎は太平洋画会研究所に学んでいます。
西脇の絵画作品《太陽(Ambarvalia)》(1950年代)は、詩集『Ambarvalia』(1933)に所収の詩「太陽」に対応しています。大理石の石切り場、スモモの藪、ドルフインを捉えて笑う少年、そして太陽、詩に出てくるものが絵に描かれています。注意すべきことは詩が先行していることです。若いころ西脇は日本語で詩作することに難渋し、英語やフランス語で詩を書いていました。萩原朔太郎の詩との出会いにより、母国語で詩作する可能性を見出しました。大正14年、自作のフランス語の詩を翻訳し、初めて日本語による詩を発表しました。一方、絵画作品は当初より東洋的な傾向が強いものでした。西脇は昭和11年より詩作から離れますが、この時期も絵の制作は継続されていました。戦後の絵画作品には晴れやかな地中海的風光の中に東洋的な要素が影のように沈殿しており、それが何とも言えない味わいをかもしています。このような印象は西脇の戦後の詩作品にも共通しており両者が分かちがたいものであることを示しています。
 西脇は戦前期の旧作を絵にすることでその奥にある東洋的気質を確認していると思われます。描くことにより戦前の詩と戦後の仕事は地続きのものとして認識されます。西脇の場合、絵が、東洋的なものを保つ働きを帯びて彼の生涯を通じて通奏低音のように流れていた感があります。
 また、岡崎清一郎の詩「神神」の一節「小僕(ボク)はズドンと発射(ウ)つ。/野原の高い植物に狙いをつけて。/ああ神神は命中して落下(オチ)てくる。」は《鉄砲と鶏》によって先取りされています。絵のほうが詩よりも先に描かれています。岡崎は浮かんだイメージをまず絵によってつかみました。イメージを定着させるにあたり絵は有効に働くことが分かります。イメージはその後も持続し、詩として醸され結晶化されました。絵は言葉と異なり色や形でイメージを投影できる直接性があります。その利点を詩作に援用していることが彼の制作からうかがわれ
ます。
 こうしてみると画家は詩を、詩人は絵を、さらなる制作に援用したり、確認のよすがとしていることが分かります。しかし、画家の詩や詩人の絵の中には単なる援用や確認とは思えないものがあることも事実です。絵の果てに言葉が、言葉の果てに絵が顕れ、画家は詩人を、詩人は画家を自身の内に見出します。これは言葉でしか、あるいは絵でしか表現できないものと彼らが出会った証でもあります。次に詩でしか、あるいは絵でしか表現し得ないものについて考えてみます。
 まず、画家がどのようなときに詩を書かざるを得なかったのか見てみます。
 画家が自然を対象とする場合、最大の師は自然そのものであり、言葉を失わなければその懐に入れません。言葉は自然との距離を保つはたらきがあるからです。一方、絵具はものの世界に属し、画家が求める色やかたちは自然との親密の度合いが強い。画家は言葉のない「もの」の領域に深く分け入っていきます。そこで画家はさらに自然に近づきその造形の秘密に迫り、自然に代わって創造したいという想いに駆られます。それは自然をまねぶ行為です。しかし、自然に近づけば近づくほど冥く深い裂け目が現れます。制御しきれぬ大きな存在に呑み込まれる畏れが生じます。そこではすべての名は失われ、画家自身の輪郭も保てなくなります。深淵に踏み込んだとき、たよりになるのが言葉です。言葉により対象を把握し、距離を保つのです。名のない状態、あるいは名ざすことができない状態のただなかで名が求められ、言葉が呼び出されます。このような言葉は畢克、詩にならざるを得ません。なぜならばかつて一度も名をもたなかったものの名であるからです。ここに詩のもつ大きな役目が示されます。それは名のないものに名を与えその出現を促すはたらきです。名が与えられたことによりそれははじめて対象として認識されます。
 画家は名のない混沌に巻き込まれる危険にさらされる一方、その豊かな世界に魅了されたことと思われます。このような状況下において紡がれた画家の詩には優れたものがあります。藤森静雄、田中恭吉の詩などはその例です。詩は彼らにとって自身を取り戻す護符や呪文のように機能するとともに、名づけようもない大いなるものに身をゆだねる心地よさと苦痛を披歴する手段となりました。また、古賀春江の《サーカスの景》など、言葉のない、あるいは音のない一種凄みをもつた世界が迫ってきたとき、観者は知らず知らずのうちに言葉を口にすることでしょう。これもまた、防御のしぐさに他なりません。
 次に詩人が描かざるを得ない状況について考えてみます。詩にはまずリズムがありますが、言葉であるゆえに意味が付帯します。詩人は既存の意味からいかに離れるか試みます。遠く隔たった言葉同士を結びつけ、新たな意が発生するよう仕向けたり、極端な場合、独自の言葉を創出したりします。
 中原中也は鋭い感覚と洞察で、既存の言葉からいかに乖離するか悪戦苦闘しました。中也は「芸術論覚え書」のなかで「芸術といふは名辞以前の世界の作業で」あると言いきります。「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい」と言っています。つまり「手」という名辞を発する以前に感じる手そのもの、そのような次元に芸術は属しそこからしか詩は生まれないと述べています。これは重要な発言です。つまり詩は名辞以前に属すると述べているからです。中也のいう名辞は名詞を、さらにはそれがもたらす概念と考えられますが、言葉そのものとも解釈できます。詩は言葉でありながら言葉以前の世界のものであるというのです。これをどのように理解すればよいでしょうか。ひとつ考えられるのは言葉には二種類あるということです。   

 一般的に使われるコミュニケーションの道具としての言葉は名辞であると言えます。全体から部分を分割し、名ざし、相手に概念を伝えるはたらきをもつ日常の言葉です。中也はこのような言葉以前に別の言葉があったと考えたのではないでしょうか。すなわち詩の素材となる言葉が別に存在するのです。それは概念を提示することなく未分化なある種の実感をいだかせる言葉です。このような言葉は具体的な何かを名ざすわけではありません。「手」が「手」である実感をもたらす、「手」が「手」として分割される以前の全体性を取り戻す言葉、あえて言えば「手」を名のない状態に戻す言葉です。先ほど、かつて一度も名をもたぬものの名が詩だと述べましたが、ここでは詩は名のあるものを名のない状態に一戻そうとしています。こうしてみると詩作とは、名のないものに名を与え、名のあるものを名のない状態に戻す作業だということが分かります。どちらも名辞以前の世界と深くつながっています。つまりそのものと出会った初発の発語に迫る作業なのです。しかし、名のない状態に戻す言葉は、はたして存在するのでしょうか。さらに考察してみます。
 名辞以前の言葉とは、おそらく響きではないでしょうか。言葉は音であり、音はそれぞれ傾向があります。温かい音や澄んだ音、鋭い音や乾いた音等、性格をもっています。これら音により感情や、さらにはかたちまでも想起させることができるのではないでしょうか。いわば名辞のもととなる言葉です。このような音の性質は動物の鳴き声にも共通しています。私たちは鳥や獣の鳴き声が威嚇しているのか、仲間を呼んでいるのかある程度わかります。中也はいわばこの「根」に近い言葉によって詩を書けと言っているのではないでしょうか。それは言葉の野性を取り戻す行
為でもあります。中也はそれをオノマトペによって克服していったと思われます。あるいは具体的な言葉にせず、「言葉なき歌」などにみられるように指示代名詞に留める場合もあります。さらには視覚的な表現(「曇天」の「黒い旗」など)によって提示しました。この、視覚的な表現への転換、ここに詩人が絵を描くきっかけがあると思われます。つまり絵は名辞以前のものを表現するにはうってつけなのです。具体的に形を描かずともそのものの実感を色彩や線で表現するのです。これは響きによる詩作よりも自在性が高いと思われます。
 名辞以前を描いた詩人としてまど・みちおがいます。まどは51歳から54歳までのごく限られた時期に集中的に抽象画を描きました。混沌からやがて律動が生まれ出る画面は宇宙の始まりを想起させます。その後彼の詩は大きな変化をきたしました。詩の内容は絵と響きあっており、絵の制作は彼の詩作にとって欠くべからざるものであったことが分かります。
 名辞以前を絵画と詩、双方で表現した詩人として山本陽子がいます。山本は意味以前の、あるいは意味を越えた異様な詩を遺しました。日本語をもとに彼女独自の言語体系と造語が詩を構築しています。また、それらの詩群は構築であると同時に既存の言葉の崩壊でした。講演会では山本作品に絡めて自作についても少し述べたいと思います。

(講演用資料 会報298号より)