自己紹介 石田 洋
詩を書き始めてからまだ数年です。全く日本の現代詩に接していません。平成二十一年四月から始めました。県立土屋文明記念館文学館の「詩の講座」に参加していた妻が亡くなったためです。講座の人員減を防ぐためです。「現代詩」という言葉すら知りませんでした。三年で止めようと決めていました。評論を読んできた者にとって、特に日本の現代詩はあいまいで厄介者でした。嫌でいやで仕方がありませんでした。ある時文明館の駐車場でぐうぜん以前の県立図書館長に会い「発表をしなさい」と言われました。一人分の詩で十分だと思っていた身には大変な衝撃でし
た。活を入れられたわけです。上毛詩壇に一度だけと思って投稿した一編の詩がどうも運命を変えてしまったようです。上毛文学賞をいただいてしまったのです。運命の出会いとはこういうものなのか。一編の詩だけで逃げ去る訳にはいかずに、 一〇編ほどの詩をあらためて投稿用に準備することになってしまいました。現代に属している存在を振り返ることも必要であるのではと思い、自分の林を間伐し下草を刈り、風通しをよくしようと詩を書いているだけです。 一方通行にならないように「県立文学館 自主学習会」に参加しています。また、「裳」という同人にも所属しています。女性の同人誌に飛び込んだことには何の抵抗も感じていません。多くの人の感性に接して作品を書いてみる。男女の別でわけることは私には全く意味のないことです。目的を持っていて場があればそれでよいと思っています。詩を書くのは面倒なことです。寡作ですのでどうなることかと思案しています。ともあれ、この会にお誘いくださいましたことに深く感謝しております。よろしくお願い申し上げます。
(会報297号より)
里程標 小嶋明子
娘たちのベビーダンスは、お気に入りのシールだらけでした。ここはいいと決めると、色別の小引出しも開き戸も、下の色が見えない位、次々とシールで埋め尽くされて行ったのでした。
ふと思うと、自分もこれまでに、通過儀礼のように目印を、あちこちに貼って来たような気がしました。
二十の頃、台風一過の青天に恵まれた山に出かけたことがありました。ところが途中、沢渡りの鎖が切れていたり、岐路で道標の向きが変わっていたり、予定のコースは断念、忘れられない登山となりました。
その後も、岐路に立った時、水が下ってやがては海に行くように、どこかに着くと信じて、迷いを封じてきたのだと思います。尾根に出れば、遠い別されが見えたりして……。
これからは、次世代の風が生まれる眼下の里へと下りながら、時と共に過去の印も消えて、生地の自分に戻って行けるのかと思われます。
後れ馳せながらお仲間に加えて戴き、新たな一歩となることを感謝しております。
どうぞよろしく、お力添え下さいませ。
(会報296号より)
不合理な思考 寺内拓
今度、会に入会致しました。よろしくお願い致します。私が詩を書き始めたのは学生の時からです。その後、暫らくの間ブランクがあって、数年前からまた書き始めました。
休んでいる時も頭の隅で詩のようなものが何かのエピローグのように、時々垂れさがってきて、その度に打ち消していました。
そして何故詩に惹かれるのかと思いつつ、遠ざかることはできなかったのです。
私の詩に対するシチュエーションのひとつに、西脇順三郎のいう、「詩を想像するということは「不合理な思考」をつくり出すことである。」という言葉です。
さらに、「人の脳髄は合理的な思考からばかり出来ているから不合理な思考をつくり出すことは非常に困難である。」と。
「このためにすぐれた詩は全面的に衰微してしまった。」とも。
詩をつくるにあたっては、それぞれ種々の考え方があるのは当然のことです。
自分の思いとしては、方向を示す詩、そしてステイトの否定。
それが底辺に流れていて、いま私の詩のモチベーションになっています。
(会報296号より)
恥をさらす 本間 修一
今年はえらいことになりました。
詩はよむもの。落書きのような調子で、ときどき書くものでした。
ちょっとした心の迷いで、二年ほど前から上毛新聞の詩壇に投稿を始めました。
選者の曽根ヨシさんに拾われたのが機縁で、二つも賞を頂く好運に恵まれました。
詩は、自分を鏡に映すように、恥ずかしいところや醜いところを遠慮なくさらします。批判や批評の矢を受けることも覚悟しなければなりません。
けれども、書かずにはいられないミューズの神の誘惑は拒絶しがたく、書く事の言いがたい満足感と、書いたものが共感を得たときの喜びは、生きる勇気になります。
多分あらゆる邪悪なものに対する、僕のような弱い人間にとっての武器なのかもしれません。
お誘いを受けて、仲間に入れさせていただくことを光栄に思います。たくさんの恥や醜さもあえてさらして行く覚悟です。
できることならば、厳しい目の中にも、一点の優しいまなざしを留めて下されますことを。
(会報295号より)
チンパンジーと酒 水野有人
上毛新聞にチンパンジーと
酒についての興味深い記事が
載っていた
チンパンジーに酒を飲ませると
人間と同様に常習化する
チンパンジーも酒の味を脳に
記憶させるのだろうか
酒を飲んでいる時は何を
考えているのだろうか
人間ならば会社のこと、上司の
愚痴、仕事仲間、恋愛について
妻の愚痴など
動物園につれてこられた
時のこと、遠い故郷のアフリカ
のジャングルの仲間のチンパンジー
のこと、
リーダー同士のけんか、
雌のチンパンジーを
巡っての争い
わたしは人間だから
チンパンジーの気持は
わからない
チンパンジーにも子育て
の悩みはあるかもしれない
チンパンジーも人間に近い
動物だから酒を飲みたくなる
時もあるのだろう
私は中之条町の陶芸館という体験施設で一般の観光客に陶芸を教えています。仕事の休憩時間を利用して詩を書いています。
毎月第四木曜日は前橋文学館友の会の「雲雀の会」というサークルで詩の勉強をしています。詩のサークルに入って、あっという間に十年が経過してしまいました。今回、群馬詩人クラブに入会したのはもっと詩の勉強をしたいと考えてのことです。それと「雲雀の会」で学習した事をより一層深めたいと思っています。今後とも宜しくお願い申し上げます。
(会報294号より)
絵筆をベンに持ち替えて再出発
長岡荘三
“生者必減”の理を持ち出すまでもなく、近頃の私は老いをごく身近に実感しています。今まで、立ち止まって周囲を見回すゆとりもなくひたすら自分の人生を前進してきて、ふと気がつけば、我が人生も終盤にさしかかり、これから先は、ますます道は細く、けわしくなってきたことを悟らされる今日この頃です。
さて、かく云う私は千曲川の水で産湯を使い、高校を卒業するまで故郷の信州佐久市で過ごし、縁あって群大教育学部(美術専攻科)を卒業し、以来約三十五年間、中学校を主に美術教師として美術教育に携わって参りました。教職に従事する傍ら、自身の画業にも余力を注ぎ各種の美術展に出品し、個展も県内
各地で数回開催し、中央の画壇にも籍をおきました。五十代半ばで退職後は本腰を入れて画業に専念し居住地、渋川市を美術活動の拠点として“渋川美術協会”を創設し初代会長として、同時に近代日本美術協会という中央の美術団体で常任理事として会の運営にも参加し、邇来およそ二十五年は、今振り返って見ても、私の人生の集大成のような稔り多き充実した時代でした。いささか自慢話のようになってしまって、恐縮ですがこのように紆余曲折を経て、人生の旅路の果てに、今までは幸いなことに、あまり健康面では不安のなかった私が喜寿を迎えた前後に、突然の大病で入院し、併せて娘も大病に襲われてそれ以降、体力、気力ともに衰えを実感しました。この私の人生にとって最大のビンチを何とか克服したのを契機に、今までの全力投球の生き方を見直し、それぞれに今まで関与してきた画壇の役職や仕事の第一線を引退し、過度の負担のかからない自由な立場になって人生の“仕切り直し”を図ろうと考えました。そして高校時代の文芸部員以来ずっと持ち続けた文芸、特に詩、俳句の創作にこれからの人生の活路を開きたいという思いに行き着きました。文芸の世界は私にとって決して無縁のものではなく、折があれば、詩や俳句、エッセイなど雑誌や新聞に投稿してきました。しかし、今の私にとって文芸の世界は、ほんの入口に立ったばかりの新人です。こんな私ですが老骨に鞭打って人生のフィナーレにキラリと光亡を放つような仕事ができ、心ふるわすような出会いをひそかに願いつつ、新入りのご挨拶に代えさせていただきます。
(会報288号より)