クロニクル『東国』   川島 完


 一九六九年スタートのときは、「太田詩人クラブ」と名のり、地域に根づいた詩活動をしていた。むろん、群馬詩人クラブの支部ではなく、独立した団体である。例会を毎月開き、詩誌「ある流れ」を季刊で発行し、会報「接点」(4〜6頁)は月刊であった。太田という地名を冠しながらも、それは緩やかで群馬東部くらいの認識だったように思える。しかしこの地域性は、集会の設定等には都合良く、詩画展や朗読会のイベントも比較的容易にこなせた。このことはヒステレヒスの財産になっていったが、時とともに会員が群馬はおろか栃木埼玉にまで拡大し、もう小回りの利く図体ではなくなった。
 必然的に会の母体構造の改変を迫られ、「東国の会」とした。ネーミングからして、箱根の東の集まりだろう程の印象を受けるが、上州は大和王権に呼応するように古墳の多い土地で、昔から東国文化などといわれてきた。それに重ねる思いも少しはあるが、それより中央でも擬似中央でもない辺境の自由さを、求めていたように、今では考えられる。綱領で謳うほど積極的ではないけれど、詩の書き手即読み手という図式を、超えたかった気持ちはあった。その具体例が、詩を書く人も書かない人も含めたグループであり、最低の義務は会費を払うことだけ。会の代表も主宰も会長も置かず、世話役として編集人と発行所(事務局)があるに留めた。従って会の入退会もかなり自由で、詩人の名を借りた胡散臭い者もいて、原稿だけはせっせと送り最低の義務は履行せず、退会する奴もいた。また原稿の寄せ方もさまざまで、二万字の短編小説ほどの分量から、百字に満たない詩まであって、誰が編集しても割付に苦労する。しかし編集人というのは、そんな物理的処理の問題ではなく、いい作品をどう曳きだすかの方が重要であって、そこから詩誌の姿勢や方向性が、自ずから定まってくるはずである。

 そのサンプルとしたいのが、創刊号の「編集後記」と思えるので、以下抽出する。(誇っていうわけではないが、宣言も主張も準備していない。その間題意識はやがてそれぞれの胸のうちに育てられていくだろう。)と、まあ、旗印のないことを旗印にするような態度であった。そのうち群馬県文学賞の受賞者がポッポッ現れ、彼らは既に個人詩集を刊行しており、会員の単行詩集出版の話題が、例会の席を賑わす。季刊詩誌・月刊会報の発行を支えていたのは、二人の印刷業を営む会員だったが、もう一人同業者がおり、その人が詩集担当を引き受けてくれた。安価にあげるため装丁・版型・頁数・集金法・発行順を事前に定め、毎月個人詩集が「月報」(八頁) つきで、出版されていく。「群馬詩人選集」と銘打ち、十六人の会員が参加し、そのうち十一人が処女詩集であった。
 詩誌を「東国」と改題したのは、一九八四年の46号からで、全会員36人のうち太田在住者は6人になっていた。この空間のひろがりは、前のシリーズ詩集を越えた本格的個人詩集発刊の要望も生まれ、「東国叢書I」が具現化され、個々人とはいえかなりの反響があった。このあたりを見ていたのか、書かない詩人といわれていた崔華國が入ってきた。「書けなくつたって、金さえ払えばいいんだろう」が最初の台詞だ。しかし、バリバリ書いた。そうこうしているうちに、H氏賞だとの報せを受け、三年後には真下章も受賞し、國峰照子のラ・メール新人賞も話題になった。そんな中でも、川越で小京都気分になったり、廃線と聞いて足尾線に乗ったり、長野・無言館で沈黙したり、新潟・瓢湖で白鳥を見たりと、遊び惚けていた。その究極は八年間続いた「赤城で夜を!の会」だ。
 が、この連綿の下で発行元の小山和郎の身体を、病が時々襲う。するとどうしても「東国叢書Ⅱ」 の刊行は後れ、「東国」 の定期発行も崩れる。自由さ故、会員になった者は一五〇人を超えるが、創刊からの参加者は今一人もおらず、私の入会した4号以降では井上英明のみである。そして小山の死を迎えた。
 詩誌を長く続ける意味を時々考える。しかし発表したい人がいる限り、その意義はあろう。現在年二回、必ず合評会を開くことで継続発行している。もう四五年になる。

(会報287号より)