詩誌『燎』の現在      志村喜代子

 

 三年目の「燎」。なんという好機に詩誌紹介せよとのありがたさ。〈現在〉と題したからには少々の弁護を交えながら振り返る、その要請が進行形であることを意味する。郷愁に似た感慨、いやいや緊張感こそ実感である。
 二〇一四年二月二十八日創刊。誌名は、「燎原」の燎、激しい勢いで野原を焼く意。その烈しさは、防ぎ止めようがない状態で″燎原の火の如し″とは、まさにわれらが志なのだ。あとがきで、編集の神保武子は、「詩を書くことは自分に対して真摯に向き合うことでもあります。目を逸らしたいこと、逃げ出したいことがあつても、先ずは正面から向き合って、せめて真実を明らかにする勇気はいつも持っていたい。」と記している。自分という他者、他者であり得る自分という者の謎に挑み深める同志六名による発足であった。
 上林忠夫 佐藤恵子 志村喜代子

 神保武子 武井幸子 原田鰐(表紙も担当)
表紙の美しい裸婦に感激しながらの合評会。全員打ち揃い、高崎市内のレストランで迫熱した。
 六月刊行となる第二号は、須田和子さんが加わり七名に。季刊四号の発行を果たし、意気も新な五号で執筆した斉藤みね子さんは、惜しくも体の不調で本号のみの参加となった。二年目の節となる八号では、磯貝優子さん、小嶋明子さんが同時に加わり九名になり、最新九号(三月刊)には寺内拓さんが参加。総勢十名で三年目に突入、会員の定着を切に念じ充実した歩みを進めたい。
 充実と言って、ふと口ごもる。どうすることが充実と言えるのか。惰性の落とし穴をもっとも恐れる。ところがその穴こそつねに、陥しこむ構えであんぐりと口をあけているのだ。すべて自己意識に委ねられているのだが。
 若手の俳人が、こんなことを書いていた。「季語の持つ世界を更新するような作品を書く」「それはすなわち、日本語の可能性に挑むということである」。詩はどうだろう、季語どころか一切の制約はない。季語への挑戦に驚意したのは、歴史と伝統に磨きぬかれた語の宝庫、その魅惑、それゆえの新鮮さ、包含力に巻きとられ、盲目的に従属していたにすぎない。言葉の土壌に激震が走ったのはいうまでもないのである。
 手垢に等しい感性の鈍磨に、くすみにくすんだ言葉に依拠せざるを得ない日常生活ではあるが、その生活あっての生きものであれば、堂々謳歌して迎え討てばよいのである。討って立つ自己が言葉だ。自己に沈潜するほかない。日本語の可能性とは。人代集に及ぶ古典文学に根差すほかないのではないか。ほかにどこにも逃げられない気がする。日本語の原点にもどってみよう、真摯に。だからせめて自分を脱皮したい。呻吟しひそやかに脱皮してやまない″燎″でありたい。


・創 刊(二〇一四年二月二十八日)
・季 刊(三、六、九、十二各月一日)
・合評会(刊行月の最終日曜日)
・原稿締切(一、四、七、十各月末)

(会報296号より)